2014年11月9日日曜日

なぜ「無理しなくていいんだよ」「幸せになってください」「頑張ってね」など善意の言葉が人を傷つけるのか?



かつて被害に遭った身として、ブコメ読んで腹が立った。 http://b.hatena.ne.jp/ent..

被害に遭った後もケロッとしていたら、周囲の人に「傷ついていないふりをしているのね。無理しなくていいんだよ」と言われた。こちらは普通に生活しているのに、「普通の生活を送ることによって強がるほど増田は壊れてしまった」と、カウンセリングをすすめられた。付き合っていた彼氏は、友達に「レイプされても普通にしているなんて増田は明らかに重症だ。いつ自殺してもおかしくないのでそばにいてあげて」と言われ、「ハァ?」と思ったらしい。

彼ら彼女らは、私がふさぎ込んで社会生活を送れなくなることを望んでいたのだろうか。手首でも切ってやれば満足だったのだろうか。

「レイプ被害者は傷ついていないとおかしい」という「常識」がはびこっていると、「善人」が被害者に迷惑をかけまくっている。何度も何度も「善人」に「傷ついていないふりをしている」と言われれば、「自分の心の底では確かにそうなのかもしれない」と思い込んで本当におかしくなってしまう人だっているかもしれない。

レイプは心の殺人?死なねえよ。勝手に死んだことにするんじゃねえよ。死んでも死んでやらねえよ。

 
増田に賛成なのだが、
どうもレスやはてブ見るとこういう時に
どうしたらいいのかわからない人をみかける。

僕の意見としては、いちいち触れること無く「日常」のまま接する。

ただ、周りに周知され
外から見てはっきり落ち込んでるようであれば、
落ち込んでることに共感して欲しいのであれば
「落ち着くまで仕事を休む」
「軽い仕事にする」
「いつもの仕事をする」
の一番気が楽な選択肢でいいよ、ぐらいの提案はする。

その上でやはり「日常」のまま接するし、
いつもの仕事に段階を追って近づける。
哀れみや同情はいたずらに傷つけると思うからだ。


善意の言葉は諸刃の剣で


「無理しなくていいんだよ」
「幸せになってください」
「頑張ってね」

善意で言われたこの言葉は、前提条件の枕言葉が隠れている。

「アナタは無理してるけど、無理しなくていいんだよ。」
「アナタは幸せではないから、幸せになってください。」
「アナタは頑張らないとダメ、だから頑張ってね。」

と、善意で究極のダメ出しをしている。
善意で言ってくれる人達にはこの枕詞が無意識にあって、
後半の部分だけしか意識して発言してない。
だから言われた方は傷つく。
たくさんの善意の同情が、
「アナタは不幸だ。不幸でないといけない。」
というメッセージとなって複数の人が
毎日何度も何度も送ってくるからだ。


自分で現在進行形に言うのは構わない。


「楽ちんだ。」
「十分幸せだ。」
「いっちょ頑張るか。」

こういう自分の受け止め方を
あなたは不幸だ、あなたは辛い、あなたにはできない、
と他人に決められるのがまずい。


それでも善意の人はわからない。


「えっ? 不幸な前提条件は動かせない事実でしょ?
私が不幸にしたわけじゃないんだよ?
だからちゃんと励ましてるんだけど?
私の励ましを待ってる人やありがとうと言う人もいるんだけど?」

 それを待ってる人が確かにいるという話は後で書く。

以下、そうやって善意の言葉を投げかける人を便宜的に幸せ教と呼ぶ。
(注: 実在の団体、宗教とは一切関係ありません。)

僕らはみんな「幸(善)、不幸(悪)」を教えられて育つので
みんな幸せ教の教えを知ってる。
この記事はそんな幸せ教から解脱するための記事だ。


不幸になりたくなければ、幸せを追い求めるのをやめよう


幸せ教の教えは単純に言うと、
世の中には「幸(善)」 と「不幸(悪)」があるので、
不幸を無くすため善い行いをしましょうということ。

僕の主張は坊主や禅のような話になるけど、
「幸せ(善)」に執着するから「不幸(悪)」が生まれるわけで
なので一度この「幸、不幸」という考え方をやめよう。
そういう視点をひとつはもとうということ。


そこにあるのは「事実」と「受け止め方」のみであって、
「不幸な受け止め方」をわざわざ外から押し付けてはいけないということだ。
それが無意識の押し付けでも。


イヴは不幸だと思うだろうか?


極端な例で説明すると、人類が過去にイヴ1人しかいなくて、
そのイヴが宇宙人にレイプされて、次の日は嵐に巻き込まれて、
その次の日は腕を骨折するような大怪我をしたら
彼女は自分を不幸だと思うだろうか?

僕から見たらそれは不幸に見えるかもしれないが、
それは僕とイヴの比較によるものだ。
もしこれが現代人で無人島に流れ着いた女性に起こったことなら、
その女性は涙も流すし、早く家へ帰りたいと
自分の不幸を嘆くかもしれない。

しかしイヴにとっては
ただそれらは抗い乗り越えるだけの当然の障害でしかなく、
不幸だと涙するための比較対象がない。
比較する女性も、思い返す文明も社会も過去にないのだから。


そんなイヴを現代に連れてきたとしよう。
幸せ教の大多数は一斉に彼女をかばうだろう。
「君はとんでもなく不幸なんだ」と。
その不遇をみんな善意で必至に理解させようとするだろう。
いつしか、彼女は他者と比較することを"知ってしまう。"
「他者と比較したら」自分がどれだけ不幸なのかを。
そこで初めてイヴは善意の人と「共感」し泣き崩れ、
それを受け入れて「不幸」が発生する。


つまり、イヴ1人だけだったら「不幸」は発生しない。
イヴが確固たる自立心を持ってても「不幸」は発生しない。
善意の人がイヴを憐れみ、同情して、「不幸な女性」と扱い続け
イヴが他者の同情を受け入れた時に「不幸」が発生する。


事実は一つ、受け止め方はさまざま


だが、幸せ教の人はそれは詭弁だと考える。
そんなふうに目を背けても、やはり事実は1つの「不幸」でしかない。
事実も「不幸」もくつがえることはない。
それでも我々は「幸せ」にならなければいけない、と。


確かにそれは事実の受け止め方の1つだ。
だが1つでしかなく唯一ではない。
ここで僕が問題とするのは、
「事実の受け止め方による精神的ダメージ」である。
しかも何度も何度も他人から受けるダメージだ。

自己が確立できてない人であれば、
さらに自分自身で己の不幸を一生裁き続け、
自分自身へダメージを与え続ける事も「よく」ある。
幸せ教の教えだと、幸せになれない奴は
この精神的ダメージを罪として一生受け続ける可能性があるのだ。


「幸せ」とはなにか?


善意の幸せ教はそれでもイヴを救おうとする。
彼らは永遠に幸せを追い求める教団だからだ。
当たり前だが前提としてまず「不幸」でなくてはならない。
「幸せ」とは何か?といえば、
誰も一般化した定義はできないが、しかし
「不幸」との比較でのみ「幸せ」を定義し実感することができる。
イヴの「不幸」が大きいほど、幸せ教の活躍しがいがある。


幸せ教にある救い


幸せ教にはちゃんと理にかなった救いがあって、
まず、「涙をながすほど追い込む」
という行動があげられる。

涙は感情のリセット装置となるので、
流し尽くしたら開き直りやすくなる。
全員で「おまえは不幸だ!」と追い詰めたらそこまで持って行きやすい。

みんなで共感して大量の涙を流せば、
不幸も洗い流されそこから前向きになれる。
そうすれば青春ドラマのような幸せへ歩き出せる可能性がある。
これが幸せ教が意識的に望む結末であり、
涙は流さなくてもうまくいくことだってある。

この方法は幸せ教への良い意味での洗脳でもあり、
ここまで追い詰められてみんなの前で涙を流せたら万事OK。
幸せ教の信徒としての自己も確立できるようになる。


幸せ教の土台


だがこの追い込みがまずいと、
善意で追い込んだ「お前は不幸だ!!」という
無意識のダメージから立ち直れないままとなる。
被害者は自分をいたわってくれる善意の信徒を
攻撃するわけがないので、代わりに自分の不幸を呪い、
ヘタすれば自分を傷つけたり、それ以上に、、、とてもまずい。


幸せ教が素晴らしく完成されてるのはこの点だ。
うまくいく幸せな場合と、うまくいかない不幸な場合が共存していて
意識せずに不幸の比較で幸せを強化している。
全ての幸せを望みながら、そのために善意の言葉を施しながら
全てが幸せにはならないのだ。
不幸な奴がいるから幸せが得られる。
幸せ教の人は意識の上では全くそんなこと望んではいないが
結果そうなる。

自分の幸せを実感したければ


幸せ教の信徒達は意識では他者を幸せにしようとして、
無意識では逆になる。
本質的には自分が幸せになりたいのだ。
だからこの発言をするとき、一片の矛盾も感じていない。

「(アナタは無理してるけど、)無理しなくていいんだよ。」
「(アナタは幸せではないから、)幸せになってください。」
「(アナタは頑張らないとダメ、だから)頑張ってね。」

意識では善意で心優しい信徒ではあるのだが、
無意識では他人の不幸を願い、
不幸を比較して自分の幸福度を高めてる。
その善意が相手の羽をむしってるのに気づかない。

いや、実はその構図に気付いてる人も多いが、
自身の絶対的な善意は否定しようがないので、
偽善と指摘されても堂々とやる意義があるのだ。


幸せ教と共依存


まるで、幸せ教を自己欺瞞の悪い宗教のように語っているが、
そういうわけでもない。
自己確立ができない同士の人で相手の羽をむしっても、
「私がいないとあなたはダメね」
「君がいないと僕は何も出来ない」
という共依存の関係にまでもっていけたら
とても社会秩序が構成しやすくなる。

母と子や、上司と部下など、人間社会は大なり小なり
さまざまな依存関係にあるから、
無意識に自立させまいという力学が働く。

別にその関係でしか自己を確立できないというのはよくあることだ。
全ての人間が独立し、自立する必要もない。
人がお互いに依存しあうには悪くない仕組みとなる。


励ましも、同情も、憐れみも、幸せ教では許される


幸せ教の善意の言葉を待ってる人というのは、そういう
自立しづらい人間関係であって、そこに大きな需要がある。

増田みたいに事実の受け止め方を自己コントロールできる
ようなことを言うとこう反発されるだろう。

「人の目も気にしない強者の理論はどうでもいいが、
人にどう見られるか気にする弱者は優しく守らねばならない!!
現に私の優しい言葉を必要としてくれる人達が現実にいる!!」

といって幸せ教が反発するのは、善意を信じているし、
善意が良い結果を出すと信じているし、
強者の理論は弱者を傷つけると考えてるし、
障害者を健常者と同じように扱ったら傷つくと考えるから。
無意識では供給者としての存在意義に関わるからでもある。

ただ、自分がいなくても独り立ちできるとは信じていない。
だから共依存なのである。
意識では自立を助ける側であり、
無意識では自立の足を引っ張る側になる。

幸せ教は声が大きい善であり正義なので、
表立った反論はしづらいが、
僕の主張は、幸せ教を必要としてる人が確実にいるならそれはあってもいい。
しかし、幸せ教でない人が何かの被害者に対して
どう接していいかわからないとすれば
「善悪や強者、弱者、幸、不幸の視点から離れて、日常として前に進もう」だ。
自分だっていつか弱く衰えて死ぬのだから、
助けを必要としてれば出来る範囲で助ける。
できなくても同情はしない。
でいいと思う。



補助線


それでも、ひどいことがあったのに
あっけらかんと「日常」を演じて接することなんかできない。
という善意の人には、こういう「補助線」的な考え方もある。


ここで日常の自分と、不幸な相手だけを比べると確かに戸惑ってしまうので。
今ウクライナがどろどろに割れてたり、
インドでよりひどい女性人権侵害があったり、
エボラウイルスで運悪く死んでしまった患者や、医療スタッフとか
現時点で進行してる世界レベル不幸の補助線のどの位置にあるかと考えると、
極端に離れてた不幸が相対的にだいぶ小さく見える。

不幸の比較だと自分が幸せの上から目線で引け目を感じるなら、
自分よりもっと幸せだと思う人達の補助線を引けばいい。
ただの事実であって、憎んだり嫉妬する必要はない。
さらに、その犯人の生い立ちをいろんなキャラクターで補ったり、
それこそ被害者の自分の知らないキャラクターや価値観を想像したり、
レイプ犯が被害者に諭されたり、
銀行強盗が人質と結婚する可能性だってミクロの可能性がなくもないし、
これから被害者が幸せになる補助線もあって、
世界の地方の性に対するおかしな文化や風習の補助線や、
時空、妄想レベルでのいろんな補助線を
それぞれの要素を善悪抜きで掛け算したら、
物語は何十パターンにもなり、
自分がその可能性を無視して全てを見て体験したかのように
勝手に相手の幸、不幸を決めつけるのはおこがましいと思えるがどうだろう?

相手がそれを態度で表明してから裏の心情なぞ勝手に推察せず、
そのまま受け取る方がお互い良いと思う。


ちなみに明石家さんまは、こういってます。


ほぼ日「さんまシステム」の魚拓まとめ - teppeis blog


さんま

もう、なんていうんでしょう。
辞書から消したほうがいいようなことばが
たくさんありますよね。
「苦労」なんて消したほうがいいし、
「努力」っていうのも消したいし、
「幸せ」も消したほうがいいですよ。



リンクの記事だとわかりにくいですが、他の番組での発言からすると
どれも当たり前のことで例え状況がどうあろうと
「今を実感して行動するだけ」しかない
とのこと。


この さんまシステム という糸井重里との対談も
面白いしためになるのでオススメ。



関連:
「生きてるだけで丸儲け」の意味 - 旧・teruyastarはかく語りき

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